アジアン雑貨,インテリア雑貨,輸入雑貨


新疆ウイグル自治区


ウイグル帝国の出現と滅亡


  中国が唐の時代、744年にモンゴル高原より興ったウイグル人の遊牧民の集団が東突厥を破り、ウイグル遊牧帝国が誕生しました。 安氏の乱等で衰えていく唐とは裏腹に、ウイグル帝国は中央アジアに拡大を続け東方世界の最強国となっていきます。 強国となったウイグルは唐に軍事力とそれによる安全保障を提供する見返りに銀を中心とする巨額の経済支援を受ける和親関係を結び、 また、ソグド人の隊商を使い、盗聴に馬を運び絹を持ち帰る絹馬貿易を行うようになります。 国際商品である絹はソグド商人の通信網に乗せられてシルクロードを通り中央アジアやヨーロッパに転売されました。 これらの唐からの経済援助、ソグド人との国際貿易によりウイグル王国は軍事力と経済力を兼ね備える遊牧国家となりました。 しかし840年より前から、モンゴル高原に天災が頻発し、牧民の動揺と内乱でウイグル帝国は混乱し、連合体の結束に緩みができたときに キルギス連合に本拠地を強襲され、ウイグル帝国は100年足らずで滅んでしまいます。



ウイグル帝国崩壊後と中央アジアのイスラム化


ウイグル人は故郷のモンゴル高原から周辺地域に移動し、甘粛省方面に向かった者は漢族、チベット族の上に立ち甘州ウイグル王国を形成。 天山東部に移動した者は天山ウイグル王国を作り、300年後モンゴル帝国が興ると国際通商能力を生かしモンゴル帝国の頭脳となります。 さらに西方に走った者たちは天山北側のぺラサ郡と南側のカシュガルを中心にカラ・ハン朝を立てました。 どの国も他人種、多言語、多文化のハイブリッド国家となっていきました。 言語は支配者の言語であるテュルク(トルコ)語が共通語となり、ソグド文字を応用してテュルク後を書写することが始まりウイグルも字が誕生しました。 こうしてパミール以東では急速にテュルク化が広がっていきます。
9世紀に現在のウズベキスタンのブハラを首都としてイラン系王朝のサーマーン朝が出現します。 この国家を中心に中央アジアにペルシア語やイラン風文化そしてイスラム文化がソグド人やテュルク系遊牧民に広がり始めます。 カラ・ハン朝は隣のサーマーン朝との接触によりイスラム教に集団改宗します。 そして999年にサーマーン朝を滅ぼしパミール東西を押さえ「テュルクの地」を意味するペルシア語の「トルキスタン」が成立します。 カラ・ハン朝の統治下のカシュガルやホータンなど天山一帯にまでイスラム化が広がり始めます。



モンゴル帝国時代のウイグル人の活躍とその後



  この時代ウイグルは小国家でしたが、この地には東西遠方の人々が往来するハイブリッド国家であり、インド・アーリア系や 漢族、ソグド系、チベット系民族がおり、言語もテュルク悟、漢語、ソグド語、チベット語、ペルシア語、アラビア語、サンスクリットや バーリ語も錯綜していました。ウイグル人の中には一人で多言語、多文化に通じ、国際通商の知識も秀でている優秀な人材が多くいるため、モンゴル帝国の頭脳として 帝国の拡大に重要な貢献を果たしました。 モンゴル帝国解体後、政治、社会集団としての統合を失ったウイグル人は天山各地、カザフ、イラン方面にちりじりとなり、歴史に存在したウイグルはほぼなくなりました。 現在の新疆ウイグル自治区のウイグルとは東トルキスタンのテュルク系のさまざまな人達がウイグルの名の下に政治上の主張のため団結したもので、7世紀に興ったウイグル人の直接の子孫とは 完全にはいえません。



現在のウイグル人とウイグル自治区の誕生


  清の時代に東トルキスタンは新疆と呼ばれるようになり、その後のカシュガルやタリム盆地のオアシス都市を奪いイスラム教国樹立を宣言したヤクブ・ベックの反乱が鎮定された後、新疆省 となり中国本土の行政制度を適用することになった。 その後辛亥革命が起こり清が滅び国民政府が新疆省の施政を開始したが、これがことごとく腐敗した物で土着民の反抗には容赦ない弾圧を加え、同族や腹心の部下を重要な地位につかせていました。 このようなこのが繰り返され、各地で反乱が起き1944年にイリで東トルキスタン共和国政府を樹立した。 1945年国民政府は張冶中を派遣してこれを説得させた結果、独立を取り消す条件として、新疆の自治を要求。国民政府はこの要求を承諾し、1946年に協定が成立しました。 1949年北京で開催された中国共産党の人民協商会議にクルジャの指導者サイフ・ウッディンが出席し、ほぼ同じくしてハミと新疆政府も中共に参加して、1955年に新疆ウイグル自治区と改称された。